リノ以外のエアレース





リノ以外のエアレース

 このサイトではリノ・エアレースをメインに扱っている訳ですが、航空の歴史が始まって以来、リノ以外にも数々のエアレースが開催されてきました。特に一次大戦と二次大戦に挟まれた一時期は航空の黄金時代と呼ばれ、エアレースが技術革新の場として機能し航空の世界を牽引していた時代でした。 一度だけ、或いは数回だけ開催されて消えたレースイベントも数多いので全部はとても把握しきれませんが、ここではその歴史の中でも代表的なレースを紹介してみたいと思います。



● ゴードン・ベネット・カップ
 James Gordon Bennett Cup
 1909-1920 (仏・英・米)

 ニューヨーク・ヘラルド社の社主だった新聞王ゴードン・ベネットが主催した最初期のエアレースイベント。

 第1回は1909年にフランスのランスで行われました。 10kmのコースを2周して争われ、優勝したのは航空の名門となるカーチスの創始者グレン・カーチスの操縦したカーチス・ゴールデン・フライヤー。 平均速度はたったの75km/hでした。 それ以降開催地を英・米・仏と移しながらコースが伸ばされ、記録も向上していきました。 最終戦となった第6回大会は第一次世界大戦による休止期間を挟んだ1920年、フランスのエタンプで行われた100kmのコース3周の競技で、優勝したフランスの飛行家ジョゼフ・サジ=ルコワントの操縦したニューポール28の平均速度は272km/hでした。

 ゴードン・ベネット・カップというレースイベントは固定翼機の他にも自動車と気球のレースがあります。 自動車の方はモータースポーツにおけるナショナルカラー使用のルーツでもあり、気球の方は途中で中断はあるものの現代まで続いているというどっちも由緒正しい大会です。


● シュナイダー・トロフィー
 Schneider Trophy
 1913-1931 (モナコ・英・伊・米)

 1913年に始まり第一次大戦を挟んで1931年まで続いた水上機によるレース。
フランスの富豪だったジャック・P・シュナイダーが航空技術の向上を期して水上機レースのためにトロフィーと賞金を提供したことから始まりました。
 大会はFIA加盟国が各国3機までをエントリー、競技距離は150海里=277.8km以上、優勝国が次の大会の開催権を獲得、5年以内に3回優勝した国がトロフィーの永久保持権を得る等の規定がありました。 また参加各機には耐航性試験が科せられ水上での実用的な取扱いが可能である事も求められました。

 1913年4月にモナコで開催された第1回大会では28kmのコースを10周する決勝が4機で争われ、優勝は仏モーリス・ブレボーの操縦したドペルデュッサン水上機、平均速度は72.6km/hでした。 この時はまだ参加機の大半が壊れるなど競技もおぼつかない状態でしたが、開催を重ねるにつれ参加機各機の性能は向上、大会は政府の支援を受けた英伊米のナショナルチームが国家の威信を背負って争う戦場として世界中が注視する大イベントへと発展し、数々の名機と名勝負を産みだしました。
 最終戦となった1931年、13回目の大会は英国カルショットで開催され、英国チームの空軍中尉ジョン・N・ブースマンがスーパーマリンS.6Bを操縦、50kmの三角形コースを5周した平均速度が547.19 km/hの大会最速記録で優勝、規定によって英国がトロフィーの永久保持権を獲得しました。  ただこれは他国の準備が整わず大会参加を断念した結果、決勝に参加したのはこの1機のみというやや煮え切らない幕引きでもありました。

 イタリアのチームは技術トラブルから1931年のレースに間に合わなかったマッキM.C.72の改良に取り組み続け、1934年にフランチェスコ・アジェッロ大尉の操縦により709.209km/hという当時の絶対速度記録を樹立しました。 これは現在でもなおピストンエンジン水上機として最速の記録です。


● ピューリッツァー・トロフィー
 Pulitzer Trophy Air Races
 1920-1925 (米)

 ゴードン・ベネット・トロフィーが終了した後に米国で開催された陸上機のレースで、こちらも新聞王だったピューリッツァー兄弟が主催して開催された大会。 時代的にシュナイダー・トロフィーと重なるのでそれと呼応しながら成績が向上しました。 またこの大会はリノへと続くナショナルエアレースの起源でもあります。
 1920年に開催された最初のレースは優勝機の平均速度が156.5mph=256km/hでした。 最終戦となった1925年の第6回大会はロングアイランド州ミッチェルで行われ、陸軍中尉サイリス・ベティスがカーチスR3C-1を操縦して優勝を飾っています。 このときの平均速度は248.975mph=401km/hでした。


● キングスカップ・エアレース
 King's Cup Air Races
 1922-1938,1946-1973,1982- (英)

 航空技術の発展を期して名前の通り当時の王様ジョージ5世によって設立された、1922年から始まり幾度かの途中の休止期間を挟んで現代まで続いているという由緒正しい英国のレース。 ハンディキャップ制として速い機ほどスタートを遅らせる方式を採用しています。 その趣旨から参加者は英国及び英連邦国民に、飛行機も英国/英連邦で設計された機のみに参加が許されました。

 1922年の初開催から38年までの期間はクロスカントリーレースとして開催され、年によって行程はまちまちでしたが540〜1600マイルの距離を競われました。  その後二次大戦の勃発により休止期間があり、49年に再開されたレースはパイロン周回レースとして開催され、61年以降は参加機の設計国条項外が外されました。 73年で一旦終了したあと80年代に再開されています。 ハンディキャップ制のレースと言うことで参加機種もバラエティに富んでいて超高速のスピードレースとは様相が違う競技です。


● トンプソン・トロフィー
 Thompson Trophy
 1929-1949 (1951-1961) (米)

 ピューリッツァー・トロフィーが終了した後も米国内でエアレースを開催する機運は保たれ、開催地を変えながら続いていました。 やがてそれはオハイオ州クリーブランドで行われるナショナルエアレースとして定着しました。
 トンプソン・トロフィーはそのイベントの中心となる短距離のパイロン周回レースです。 賞金とトロフィーを提供したトンプソン・プロダクトはバルブの生産メーカーで現代でも有力な自動車部品メーカーであるTRWの前身です。

 レースは1929年に始まり1939年まで続いたあと、二次大戦による休止期間を挟んで1946年に再開、その後1949年まで続きました。 戦前のトンプソンは出場機のほとんどがレース専用設計の機体で争われました。その頃は民間レーサーの方が軍用機よりも速く飛ぶことが出来る時代でした。
 しかしそれが二次大戦後になると様相は一変、大戦中の軍用機開発競争でレシプロ機の性能は飛躍的に向上、さらに戦争終結で余剰となった機体が民間へ格安で放出されました。 その結果、エアレースは高性能な戦闘機を改造したレーサー達で争われる様になりました。 この戦後のトンプソンが現代のリノ・エアレースの原型になっています。 1932年トンプソン・トロフィー優勝機 GeeBee Model R-1
・1932年トンプソン・トロフィー優勝 GeeBee Model R-1

 またパイロンレースの終了した後も1951年からトンプソン・トロフィーの「J部門」として軍によるジェット機を使った "Military Speed Dashes"、つまり速度記録競技が行われ、それは1951年まで続けられました。


● ベンデックス・トロフィー
 Bendix Trophy
 1931-1949 (1946-1962) (米)

 ナショナルエアレースの一環として開催された競技のひとつで、こちらは米大陸横断の長距離飛行レース。 主催のベンディックス・コーポレーションは機械/油圧機器のメーカーで、当時航空部門を立ち上げてその分野に注力をしていました。
 開催年によって変動のあったコースはナショナルエアレースの開催地を着地とし、出発地には大陸の反対側の都市が選定され、コース全長は2000-2450マイルに及びました。

 第1回大会となる1931年のレースではカリフォルニア州バーバンクからオハイオ州クリーブランドへ向かう2043マイル(3288km)のレースで、優勝機はレアード・スーパーソリューション複葉機、パイロットは当時陸軍航空隊少佐だったジミー・ドーリットル。 記録は9時間10分21秒、平均速度は223.06mph(359km/h)でした。
 トンプソン同様、大戦による1940年〜1945年の休止を挟み1946年に再開された時は出場機が余剰大戦機に様変わりしていて1949まで続きました。最終戦の49年にはカリフォルニア州ロザモンド乾湖からクリーブランドへの2008マイル(3232km)で争われ、ジョー・デボナがF-6C(P-51の偵察型)の #90 "Thunderbird" で4時間16分17秒、平均速度470mph(756km/h)で飛んで優勝を飾っています。

 またトンプソン同様にベンディックスも戦後にジェット部門として46年から62年まで軍による記録飛行競技が行われました。 最終的には空軍のB-58ハスラーがロサンゼルス-ニューヨーク間を2時間0分57秒、1214.17mph(1954km/h)で飛び、オハイオ州デイトンにある空軍博物館では記録を樹立したB-58がその時のトロフィーと共に展示されています。


● パウダーパフ・ダービー
 Powder Puff Derby
 1929,1947-1977 (米)

 これもナショナルエアレースの一環として1929年8月に開催された1回限りの競技で、女性によるカリフォルニア州サンタモニカからオハイオ州クリーブランドへの大陸横断レース。 アメリア・エアハートやパンチョ・バーンズなど当時国際的に大変な人気を誇っていた著名女性飛行家達が参加しました。
 また戦後に第30回まで続いたジャクリーン・コクラン女性大陸横断レース(Jacqueline Cochran All-Woman Transcontinental Air Racece = AWTAR) にも同じ通称があります。


● マックロバートソン・トロフィー
 MacRobertson Trophy Air Race
 1934 (英→豪)

 1934年10月にビクトリア州とメルボルンの100周年記念行事として開催された、英国のロンドン近郊にあるミルデンホールを出発してオーストラリア南部のメルボルンへ至る全行程18200kmに及ぶ超長距離レースです。 地元の製菓業で財をなしたマクファーソン・ロバートソンが賞金75000ドルを提供たことにより、レースの名前は彼の会社から取られています。
 途中必ず立ち寄る事とされた5箇所の経由地はバクダッド(イラン)、アラハバード(インド)、シンガポール、ダーウィン(オーストラリア)、チャールビル(同)で、更に途中給油可能地点として経路上にある22箇所の空港が指定され、そこではシェルとスタンダード石油の提供で燃料とオイルが準備されていました。
 レースには60機を越えるエントリーがありましたが、この内実際に離陸をしたのは20機でした。更にその中からメルボルンに到着しレースを完走したと認められたのは9機、メルボルンには辿り着いたものの規定時間を超えてしまい完走扱いにならなかったのが2機、リタイヤが9機という過酷なものでした。

 このレースで優勝したのは英国から参加したC.W.A. スコットとトム・キャンベル・ブラックの組で、乗機はこのレースのために開発されたデハビランドD.H.88コメットでした。  記録は71時間0分で、これは2位との差が約19時間という大差をつけての勝利でした。 とは言え総合2位3位に着けたのはレース専用機ではなくダグラスDC-2とボーイング247D旅客機で、従来船に頼るしかなかった長距離輸送手段として航空機の可能性を示したレースでした。


● ハロルドクラブ大陸横断レース
 Harold's Club Transcontinental Trophy Dash
 1964-1970 (米)

 64年にリノでナショナルエアレースが再開された時、その一環としてベンディックス・トロフィーを受け継ぐ形で始まった大陸横断競技レース。 リノをゴールとして、出発地を初期にはフロリダのセントピーターズバーグ(コース長2254マイル)、後期にはウィスコンシンのミルウォーキー(コース長1667マイル)として争われました。 しかしパイロンレースほどには長続きせず70年の競技を最後に終了してしまいました。
 出場機はタイムロスの原因となる途中給油を減らすため燃料搭載量を極限まで増やしたり、巨大な増槽を装備するなど長距離レースを戦う為の改造が施されました。 1967年ハロルドクラブ大陸横断レース優勝機 #87 Signal Sea Fury
・1967年ハロルドクラブ大陸横断レース優勝 #87 Signal Sea Fury


● モハービ・エアレース (カリフォルニア1000)
 Mojave Air Race (California 1000)
 1970,1971,1973-76,78 (米)

 カルフォルニア州南部、エドワーズ空軍基地の西に位置するモバービ空港で開催されたレース。 1970年は10.15マイルのコースを66周する全長1000マイル、71年は同じコースを41周する全長1000kmの途中給油を見込んだ耐久パイロンレースとして開催され、このふたつのレースはカリフォルニア1000と呼ばれました。 73年以降は通常の短距離パイロンレースとして開催されています。
 モハービのコースはリノにも似た砂漠のロケーションなんですが、このコースはリノとは逆の時計回り。
 このレースが開催された頃からモハービは民間航空機の開発拠点として発達、数多くのテスト飛行や記録飛行の舞台となりました。 今やスペースシップ・ワンの母港として宇宙港の看板を掲げる程になっています。 1970年モハービ・エアレース (カリフォルニア1000) 6位 #64 Super Snoopy
・1970年モハービ・エアレース (カリフォルニア1000) 6位 #64 Super Snoopy







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