#5 Red Baron (1979)





#5 Red Baron (1979)

前のお話からの続きです。
アイダホで大規模ポテト農園を経営していたエド・ブラウニングがこの#5を入手して"Red Baron"の愛称でRENO'74にエントリーした時点では"Roto-Finish Special"のカラーリングを全面真紅に変更したのみの状態で、パイロットを務めたのは72年のAT-6クラスで優勝経験のあるマック・マクレインでした。 この年のRENOでは予選3位に付けるものの決勝ではエンジンを壊して緊急着陸でレースを終えました。 しかし翌月の カルフォルニア州モハービのレースでは優勝を飾っています。

オーナーの ブラウニングはその成績に満足をせず、更に速い機体を求めていました。 そこでパイロットのマクレイン、エンジンチューナーの デイブ・ツオイシェル達と協議し#5のエンジンであるRRマーリンをより大型でパワフルなRRグリフォンへと換装する計画を立てました。 機体設計はロッキードのスカンクワークスでエンジニアをしていたブルース・ボーランドが担当しています。 彼は世界速度記録を更新したダリル・グリーネマイヤーのF8F改造機、#1 "Conquest-One"や、オリジナル設計のレーサー#18 "Tsunami"の設計者でもあります。

エンジンと機首はツオイシェルのショップで作業が進められました。 アブロ・シャクルトン哨戒機用のグリフォン57をベースに過給機とクランクシャフトはファイアフライ戦闘機用のグリフォン74から、グリフォンに付いていた燃料噴射装置は容量により余裕のあるR-2800用の降流式キャブレターに置き換えられ、それに合わせて機首上面に吸気ダクトが配されましたました。 プロペラもシャクルトン用の二重変反転プロペラをブレードの先端をカットして搭載しています。
機体の改造はカリフォルニア州チノのAero-Sport社で行われ、重心位置をなるべく動かさないために防火壁を切り欠いた穴へ気化器と過給機の一部を突っ込む格好で巨大なグリフォンエンジンを搭載しています。 "Miss R.J."の頃から背部を覆っていたFRP製のカバーが剥がされて新しい胴体背部とキャノピーが載せられ、また垂直尾翼は当初弦長のみを増す形で3割ほど増積されました。 ここは改造後の初飛行で安定性が足りない事が判明したため急遽ベントラルフィンを追加するなど何度か形状変更を繰り返しています。

RB51垂直尾翼形状変遷

こうして完成した機体は型式をRB-51と呼称されることになりました。 でもこれは非公式なんで後の速度記録での公式な型式呼称はP-51Dのままだったりします。
しかしRB-51のデビュー後暫くはトラブルが続き Mojave'75では決勝リタイヤ、RENO'75では決勝2位、Mojave'75では強敵の不出場で優勝はしたものの速度はあまり出ておらず、RENO'76では決勝でリタイヤと期待されたほどの成績を残せずにいました。

翌年、RENO'77を迎えたチームはリノで6度の優勝経験を持つダリル・グリーネマイヤーをパイロットに迎えた必勝態勢でレースに臨み、決勝では当時のレースレコードを更新してチームの悲願だったリノでの優勝を果たしました。
しかしその後、グリーネマイヤー はRB-104の事故 のあとレース活動を休止してしまい、チームはRB-51の操縦桿を当時まだ26歳だったスティーブ・ヒントンに託しました。 彼はチームにバックアップのパイロットとして設立当初から参加していて、また幼い頃からチノにある大戦機の博物館プレーンズ・オブ・フェイムで働いていており、十代から操縦を始めて以来数多くの大戦機を乗りこなし、その卓越した操縦技術は周囲から注目されていた存在でした。
ヒントンはチームの期待に見事に応え、続くRENO'78、Mojave'78、Miami'79の3つのレースに総て優勝を飾る健闘を見せました。 そしてチームはオーナーのもうひとつの悲願であるRB-51による直線3km路速度記録に挑戦、当時のレコードはダリル・グリーネマイヤーによる#1 "Conquest-One"が1969年に記録した776.449km/hでしたが、チームは1978年8月にネバダ州トノパの乾湖、マッドレイク上空に設定されたコースで速度記録飛行を敢行、803.138km/hで記録を更新することに成功しました。

記録更新の翌月に開催されたRENO'79に現れたRB-51は記録挑戦飛行のスポンサーにもなったビールメーカーのスポンサーロゴを大書きした派手な出で立ちで、機体には誇らしげに"WORLD'S FIRSTEST PISTON POWERD AIRCRAFT"の文字が記されていました。
しかし、決勝でレース中ずっとエンジンの不調で悩まされていたRB-51はなんとか2位でゴールを通過したものの、その直後にエンジンから白煙を吐き、リノ・ステッド飛行場の東にあるレモンバレーの地表に尾部から激突、機体は四散炎上してしまいました。 ですが炎に包まれた燃料タンクのある翼やエンジン部が操縦席のある中央胴体が離れたのが幸いして、ヒントンは脚の骨を折り全身打撲の重症を負いながら辛くも一命をとりとめました。
彼はその後RENO'81でカムバックを果たし、84年と85年にはアンリミテッドで優勝を勝ち取るなどの活躍をした後、90年代中盤からはペースプレーンのパイロットとしてエアレース全体を監督するという重要な役割を務めています。






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