#18 Tsunami (1991)





#18 Tsunami (1991)

 ロッキード、スカンクワークスの技術者でもあるブルース・ボーランドはリノ・エアレースの始まった頃から何機ものエアレーサーの改造を手掛けていました。彼は1970年代の初め頃から、よりレースに特化したオリジナル設計の機体を構想しました。
 この計画は1979年、ジョン・サンドバーグの出資を得て本格的に始動します。サンドバーグはミネソタ州ミネアポリスで航空機用エンジン修理の会社を持つエンジニアで、リノでは以前から大戦機改造レーサーを擁するチームを率いていました。

 それから7年後の1986年に完成したこの機体は同じロールスロイス・マーリンエンジンを持つP-51と比べて二回りほど小さく、愛称の"Tsunami"は日本語の"津波"を意味しています。
 初飛行から僅か三週間後に迎えたRENO'86ではスティーブ・ヒントンが操縦桿を握り予選で3位、決勝はエンジントラブルでリタイヤに終わり、RENO'87も予選2位ながらヒートレース中エンジントラブルに伴う緊急着陸で主脚を折ってしまうなど、速さを見せながら常にトラブルの続く機体でした。また89年にはリノの直前に行われた速度記録への挑戦で着陸時に再び脚を折ってしまいましたが、それをチームはたった4日の突貫工事でリノへ間に合わせるという離れ業をやってのけています。
 その後、'90からはパイロットをスキップ・ホルムに替えてテキサスのレースで優勝を果たし、その年のリノでは決勝で2位に食い込ました。翌年のRENO'91ではそれまでのシルバーから一転、真っ赤な塗装を纏って現れた"Tsunami"は決勝で3位ながら上位3機がそれまでのレースレコードを上回るという超高速レースを演じており、常に優勝を争う強豪の一角になっていました。

 しかしリノ'91の終了後、オーナーのサンドバーグの操縦で本拠のミネソタへの帰途、給油に寄ったサウスダコタにある飛行場への着陸アプローチ中に墜落。機体は喪われ、操縦していたサンドバーグも帰らぬ人になってしまいました。フラップ作動用アクチュエータの動作不良により片利きが生じ、回復が極めて難しい低空低速での横転に入ったのが原因だと考えられています。





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