この機体はアンリミテッドレーサーとして大改造を施された最初のシーフューリーで、元々はカナダ海軍で使われていた Hawker Sea Fury FB Mk.11です。
1965年にこの機体を入手したマイク・キャロルは二次大戦以来中断されていて、その頃に再開された大陸横断レースへの出場を期しました。 彼の下で行われた改造は多岐に及び、翼端カット、各種軍用装備品の除去、機体構造軽量化、翼折り畳み機構と着艦フック取外し、小型涙滴型キャノピ搭載と表面の平滑化、電装・油圧装備の最適化などなど。大陸横断仕様として増やされた燃料搭載容量はオリジナルのシーフューリーの2.5倍に近い588ガロンになりました。 翌年の夏までに改造を終えた本機はキャロルの経営する会社に因んで "Signal Sea Fury"と命名され、#87のレースナンバーが付けられました。
デビューの66年シーズン、#87はフロリダ州セントピーターズパーグからカリフォルニアのパームスプリングスへのレースで出場3機中3位、パイロンレースの RENO'66はシルバークラスで2位。どちらもトラブルに見舞われて良い成績を残せず終わりました。 翌'67シーズンにはカルフォルニア州パームスプリングスからオハイオ州クリーブランドへのナショナルエアレースで2位に付け、続いて行われたイリノイ州ロックフォードからネバダ州リノへのハロルドクラブ大陸横断レースではこの当時常勝だった E.D.ウェイナーのP-51、#14 "BARDAHL II"を制して優勝を飾っています。
翌年、キャロルはパイロンレース用に改造したP-39のテスト飛行中、事故に遭い死亡してしまいました。売りに出された#87はシャーマン・クーパーに買い取られて "Miss Merced"と命名され、その後も大陸横断レースやリノのアンリミテッドクラスに出場を続けました。RENO'71のゴールドレースでは1位から4位の差が僅か4秒という混戦で3位に入っています。しかしその年のクリーブランドで行われた1000マイル耐久レース中、#87はエンジンブローを起こて不時着、破損していまいます。 その後クーパーはピッツ複葉機の事故で死亡してしまい、#87も転売を繰り返されてレースの現場からは長らく遠ざかっていました。
それから30年近く経過したRENO 2000。 #87は往年の姿を模したブライトイエローにフレームパターン塗装、愛称もそのままの "Miss Merced"としてレースに復帰、ブロンズクラスで1位になっています。但し、ブリストル・セントーラスエンジンと5翅のプロペラの組み合わせは ライトR-3350の回す4翅プロペラへと換装され、翼やキャノピはオリジナルの形状に戻されていました。
このイラストはRENO'66出場時の#87。 この時操縦を託されたのは後に #77 "Rare Bear"でリノに君臨する事になるライル・シェルトンでした。
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