こうして完成した機体は型式をRB-51と呼称されることになりました。 でもこれは非公式なんで後の速度記録での公式な型式呼称はP-51Dのままだったりします。
しかしRB-51のデビュー後暫くはトラブルが続き Mojave'75では決勝リタイヤ、RENO'75では決勝2位、Mojave'75では強敵の不出場で優勝はしたものの速度はあまり出ておらず、RENO'76では決勝でリタイヤと期待されたほどの成績を残せずにいました。
翌年、RENO'77を迎えたチームはリノで6度の優勝経験を持つダリル・グリーネマイヤーをパイロットに迎えた必勝態勢でレースに臨み、決勝では当時のレースレコードを更新してチームの悲願だったリノでの優勝を果たしました。
しかしその後、グリーネマイヤー はRB-104の事故 のあとレース活動を休止してしまい、チームはRB-51の操縦桿を当時まだ26歳だったスティーブ・ヒントンに託しました。 彼はチームにバックアップのパイロットとして設立当初から参加していて、また幼い頃からチノにある大戦機の博物館プレーンズ・オブ・フェイムで働いていており、十代から操縦を始めて以来数多くの大戦機を乗りこなし、その卓越した操縦技術は周囲から注目されていた存在でした。
ヒントンはチームの期待に見事に応え、続くRENO'78、Mojave'78、Miami'79の3つのレースに総て優勝を飾る健闘を見せました。 そしてチームはオーナーのもうひとつの悲願であるRB-51による直線3km路速度記録に挑戦、当時のレコードはダリル・グリーネマイヤーによる#1 "Conquest-One"が1969年に記録した776.449km/hでしたが、チームは1978年8月にネバダ州トノパの乾湖、マッドレイク上空に設定されたコースで速度記録飛行を敢行、803.138km/hで記録を更新することに成功しました。
記録更新の翌月に開催されたRENO'79に現れたRB-51は記録挑戦飛行のスポンサーにもなったビールメーカーのスポンサーロゴを大書きした派手な出で立ちで、機体には誇らしげに"WORLD'S FIRSTEST PISTON POWERD AIRCRAFT"の文字が記されていました。
しかし、決勝でレース中ずっとエンジンの不調で悩まされていたRB-51はなんとか2位でゴールを通過したものの、その直後にエンジンから白煙を吐き、リノ・ステッド飛行場の東にあるレモンバレーの地表に尾部から激突、機体は四散炎上してしまいました。 ですが炎に包まれた燃料タンクのある翼やエンジン部が操縦席のある中央胴体が離れたのが幸いして、ヒントンは脚の骨を折り全身打撲の重症を負いながら辛くも一命をとりとめました。
彼はその後RENO'81でカムバックを果たし、84年と85年にはアンリミテッドで優勝を勝ち取るなどの活躍をした後、90年代中盤からはペースプレーンのパイロットとしてエアレース全体を監督するという重要な役割を務めています。
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