#1 Bud LIGHT Special (1982)





#1 Bud LIGHT Special (1982)

 この機体はボートF4U-1Dコルセアの改造レーサー。 エンジンをオリジナルのP&W R-2800ダブルワスから排気量が1.5倍、出力が2倍の4000馬力を越える空冷星形28気筒 R-4360 ワスプ・メージャーへと換装した機体です。
 このエンジンを積んだコルセアのレーサーとしては1940年代後半のクリーブランド・エアレース時代に4機のグッドイヤー製F2Gが活躍していて、この機もそれにあやかって機種名を本来のF4U-1ではなくF2Gと表記してレースにエントリーしています。
 R-4360は大戦後に活躍した大型機に多数搭載されたお陰で手に入り易く、大出力を誇りながらも扱い易いという利点がありました。

 カリフォルニア州のチノ飛行場にある航空博物館、プレーンズ・オブ・フェイムの創始者エド・マロニーの息子であるジム・マロニーと、ジムの幼馴染みで義弟、79年にRB-51でリノ優勝経験のあるスティーブ・ヒントン。 この2人が始めた大戦機レストア会社、ファイター・リビルダーズと、博物館に集まった若いスタッフ、通称「チノ・キッズ」が1981年に立ち上げたレーサーの計画が本機で、機体設計にブルース・ボーランド、クルー・チーフにランディ・スコヴィルなどRB-51に関わった多くのクルーもまた本機のプロジェクトに参加しています。

 ベースにされたF4Uは元々映画撮影に使われていた機体でした。 エンジンはダグラスC-124輸送機用のR-4360-63Aをベースとした物が用意されました。 カウリングはA-26攻撃機からの流用で、上部に過給機用のエアスクープとダクトが付いているのですが、これはかつてF2Gレーサーが苦労した吸気損失の問題を克服するのに都合が良い形状でした。 プロペラはA-1スカイレーダー用エアロプロダクツ製4翅、スピンナーはP-51用の物が使われています。 更に翼端を4フィートずつ切り詰めて外翼側のフラップを固定、キャノピも低抵抗な形状に置き換えられています。 主翼付け根はフィレットを追加、翼前縁に開いたオイルクーラー用空気取入口を小さく整形、中のクーラーもグラマンS2Fの物に置き換えられ、そこへ水を噴射する冷却機構が追加されました。

 大規模な改造にも関わらず、10ヶ月の短期間で仕上がった新型レーサーは銀色の機体にスポンサーとなったビールメーカーのロゴを大書きして1982年のリノ・エアレースにレースナンバー1、"Bud LIGHT Special" の名でエントリーしました。 ヒントンがパイロットを務めたレース結果は予選で4位(413.2mph)、決勝でゴールド4位(362.5mph)でした。 初出場でこの結果なら健闘ではあるものの、これはチームが期待した程ではありませんでした。 ヒントンらが狙っていたゴールドの栄冠は同じくこの年にデビューしたP-51改造レーサーの #4 "Dago Red" が勝ち取っています。
 1983年5月、チノのチームはその中核を担っていたジム・マロニーを事故で失うという不幸を経験します。 その4ヶ月後に迎えたリノ'83で#1は安定して実力を発揮できず終いでゴールドレースへは残れずシルバーで1位止まりでした。 翌年のリノ'84はバドワイザーとのスポンサー契約が切れてゴロが消され "Super Corsair"と名前を変えての参加でしたが上位2機にやや離されてのゴールドレース3位と煮え切らない結果が続きました。
 #1はその間にも各部の改良が進められました。 翌年のリノ'85では同じエンジンを装備した #8 "Dreadnought"と接戦を演じた末、当時のレースレコードを更新する438.186mphで優勝して雪辱を果たしています。

 以降の#1は翌リノ'86からジムの弟のジョン・マロニーが操縦桿を握ってリノに参加を続け、リノ'93からはチームの一員だったケビン・エルドリッジが操縦を託されました。 この頃のリノは高度な改造を施された競合機が次々に出現して鎬を削っていた時代で、各機が記録を伸ばす中で#1はゴールドレースの常連には何とか踏みとどまってはいたものの、今ひとつ好記録に恵まれず上位に食い込めない精彩を欠いた状態が続いていました。

 そして終わりは突然やってきました。 '94年5月にアリゾナで行われた第1回フェニックス500のヒートレース中、3周目で#1はエンジンから白煙を吐きはじめました。 エルドリッジはエンジンをカットし緊急事態を宣言、レースから離れて高度を取って着陸に備え体勢を建て直そうとしました。 しかしその間にも煙が黒くなり、ついには長い炎の尾を曳くまでに事態が悪化、エルドリッジは脱出を決意し、機を右に緩ロールさせベイルアウト。 それから約10秒後、#1はほぼ垂直に地面へ激突して四散炎上してしまいました。 後の検証でエンジン火災はマスターコネクティングロッドの破損に起因すると考えられています。
 エルドリッジは脱出の際に水平尾翼と接触し重傷を負いましたが、翌年のリノまでには回復、レースへの復帰をしています。 

以前描いた奴の描き直しであります。






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