Hawks Miller "Time Flies" (1936)





Hawks Miller Time Flies

 時は1930年代の半ば、フランク・ホークス (Frank Hawks) は石油メーカーのテキサコの後援を受けフォード・トライモーター"Texaco One"、ロッキード・エアエクスプレス"Texaco Five"、トラベルエア・ミステリーシップ "Texaco No.13" 等により数々の都市間飛行記録を打ち立てていた全米有数の著名飛行家でした。
 ホークスはテキサコとの契約を終了し、新たな乗機を求めてハウエル W. "ピート" ミラー (Howell W. "Pete" Miller) と接触しました。 ミラーはグランビル・ブラザース航空機のチーフデザイナーとして兄弟の長兄ザンツフォードと共に1932年のトンプソン・トロフィーで優勝した GeeBee Model R-1 やR-2、後継の R-6 "Q.E.D" を設計した気鋭の航空機設計者でした。 因みに同じGeeBeeでも黄と黒の Model Z の設計はロバート L. "ボブ" ホール (Robert L. "Bob" Hall )で別人。

 ミラーはジービーでの仕事を続けながら、同じコネチカット州スプリングフィールドで自身を社長としホークスを副社長とするニューイングランド航空機を設立、当時米国最大の時計メーカーだったグリュエン・ウォッチの後援をとりつけて設計の着手から4ヶ月後の1936年10月、Hawks Miller HM-1 を完成させました。
 "Time Flies" と名付けられたHM-1は完全引込式の主脚をもち、通常飛行では風防を胴体と一体化、視界は左右にある涙滴形の窓から得て、離着陸時のみ風防と操縦席を持ち上げ胴体の上に頭を出す様になっていました。  構造はGeeBeeを踏襲した鋼管の骨組みに合板を貼った胴体とフラップを備えた木製の主翼で、1150馬力のP&Wツインワスプ R-1830エンジンがミルトン・スタンダード製定速プロペラを駆動しました。 最高速度375mph (603.5km/h) 、海面での上昇率毎分1700フィート、大容量燃料タンクにより後続距離1700マイル (2735km) と当時の水準から傑出した性能を持っているだけでなく、高高度飛行用酸素ボトルや当時まだ一般的でなかったジャイロコンパスやUHF無線機などの航法装備を備え軍の採用を見越し実用性の配慮がされました。
 HM-1 の登録番号「NR1313」はかつてホークスが飛ばしていた"Texaco No.13" から流用され、白く塗られた胴体の側面にグリュエンのエンブレムが描かれました。 機体正面のカウリング外周を時計の文字盤に見立てた配置で "GRUEN WATCHES" と書かれましたが上の画では見えないですね。

カウリング
こんなカウリングでした


 ホークスの操縦によるHM-1の初飛行は1936年10月18日。 その後テスト飛行とグリュエンの為の宣伝ツアー、そして軍での採用を取り付けるためのデモが続けられました。 
 1937年4月13日、ホークスはニュージャージー州ニューアーク空港で着陸時に右主翼の桁を損傷させてしまいました。 機体はそれからコネチカットに引き上げられましたが、グリュエンからの追加支援を得られなかったホークスは資金難のため機体の再建を断念してしまいました。 この時までのHM-1の"Time Flies"としての総飛行時間は僅か27時間46分でした。

 その後ホークスは機体と設計データを含む権利の一切をリー・ウェイド (Leigh Wade) とエドワード・コナートン (Edward Connerton) に売却しました。 二人は設計者のミラーと共にHM-1を軍へ売り込もうとしていて、ミラーの会社も再編され Milltary Aircraft Co. となりました。
 HM-1は再建され、胴体の燃料タンクが縮小され操縦席は密閉式風防をもつタンデム復座となり、主翼にはダミーの機関銃を納めたガンベイが設けられました。 呼称も"Milltary Aircraft MAC-1"とされ登録番号もNX-2491に改められました。  MAC-1は1938年8月にウェイドの操縦により初飛行、#41として同年9月のトンプソン杯に出場しましたがウェイドはエンジンの燃費に苦しんで終盤スロットルを絞らざるを得ず、249.824mph(402.05km/k) の4位でレースを終えました。

 それからウェイドらはンプソン杯に Keith Raider R-3 機で3年連続で2位入賞している飛行家アール・オートマン (Earl Ortman) をテストパイロットとして迎え、軍用装備を施しても当時陸軍に採用されていたセバスキーP-35よりも優速で上昇率も遥かに高いMAC-1の売り込みを続けました。 しかし軍は全金属モノコック構造のP-35に対し木金混合のMAC-1に興味を示しませんでした。 ウェイドらはそれでも米国外へ売り込むべくテストとデモを続けましたが、同年10月のテスト飛行中速度超過のダイブからの引き起こしでMC-1の翼桁が折れて墜落、オートマンは脱出して無事でしたが機体は修復不能な損傷を負い、資金不足から計画は放棄されてしまいました。

 MAC-1の墜落に先立つ1938年8月、元になったHM-1の産みの親であるホークスはレースから引退して従来機より簡単で安全に運用が可能な航空機を目指した Gwinn AirCar 複葉機のテストパイロットとして雇われていましたが、テスト飛行中に電話線と接触、墜落して命を落としています。






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