西ドイツで使われた英国製ホーカー・シーフューリーを大改造し1987年にリノ・エアレースに初参戦、シルバー2位の成績を残した #88 "BLIND MAN'S BLUFF" が新たなオーナーを得て90年、 #90 "WANNA PLAY 2" と名を変えてリノへ参戦したものの予選前の胴体着陸で損傷、そのままレースを終える結果となってしまった前日譚はこちら。
不時着で損傷した#90の機体を購入したのが90年のT-6クラスのチャンピオンで元空軍の飛行士、リノの南西にあるカリフォルニア州オーバーンでガソリンスタンドのチェーン Flyer を含むエネルギー起業 NELLA を経営していたトム・ドゥエル (Tom Dwelle) でした。
リノで分解された機体はオーバーンの飛行場にあるハンガーへ陸送され、そこで修繕と再整備が進められました。 修繕にあたってオイルクーラーは両翼付け根に移され、翼弦を増した前縁に開口部を持つ形式へと改められました。 再塗装された機体は新たなレースナンバー#10とドゥエルの家族が幾つかの候補から投票で決めたという "Critical Mass" の名称が与えられ、機首には日頃からせわしなく動き回ることからついたドゥエルのニックネームに由来するタスマニアンデビルのキャラクターが描かれました。
ドゥエルと#10の初参戦となった93年のリノ・エアレースでは調整不足でまだ本調子が出ず予選では375.982mphで26機中13位、土曜のレースでエンジンを壊し決勝には進めませんでした。 翌94年には予選7位 397.349mph 、ヒートレースで最低高度違反で出場停止のドゥエルに代わりスキップ・ホルム (Skip Holm) の操縦で決勝ゴールドレースで5位の成績を残しました。 以後もトラブルと改良を繰り返しながらのリノ参戦が繰り返されました。
95年春、整備中に主翼に積まれた圧縮窒素タンクが爆発、ドゥエルは右手の親指を残す4指を失う事故が起きました。 #10の修復は半年後のリノに間に合いませんでしたがドゥエルは指を失った右手をベルクロで操縦桿に縛ってT-6クラスにエントリー、決勝ブロンズレースで前年からT-6クラスに参戦している彼の息子トム・ドゥエルJr (Tom "T. J." Dwelle, Jr.) と親子対決を演じる豪傑振りをみせました。 96年のリノに#10は視界を改善し、より低抵抗な新しいキャノピーを導入、ドゥエルも右手に両足の人差指を移植レースに参戦しました。
97年リノで不調のドゥエルに代わりホルムの操縦でのレース中、#10はエンジンブローによる緊急着陸を経た後、損傷を機に大規模な改修が施されました。 エンジンはマウントごと #77 "Rare Bear" へエンジンを供給していることで知られるエアクラフト・シリンダー&タービンでチューンされたレース仕様のR-3350へ換装され、カウリングもDC-7用を加工したものが、カウリングに最適の形状となるようスピナーも改められ防火壁から前方の機首が一新されました。 排気によるジェット効果をより高めるべく排気管のレイアウトも改められ、排気口から後方の胴体側面は大きなフィレットで覆われました。 オリジナルより14インチ高かった垂直尾翼は8インチ高さを減らされ、翼型も改められました。 空力の改善には多くのエアレーザーの設計に携わったことで知られるブルース・ボーランド (Bruce Boland) の助言が反映されたそうです。
#10の復帰は2年後、99年のリノ・エアレースになりました。 改修の効果は明らかでドゥエルは予選をこれまでにない速さで飛び、決勝ゴールドレースでも一時は3位を飛んだもののエンジンが壊れリタイアを余儀なくされています。 その後02年には予選計時前の低速タキシング中に脚が畳まれてしまうトラブル退場するトラブルはありましたが、ドゥエルが引退レースとして臨んだ03年のレースまで有力なレーサーとして活躍しました。 最速の予選計時は99年の435.015mph、決勝での最高順位は00年のゴールドレース2位、レースでの最速計時は03年の Heat 2A で叩き出した 456.965mph でした。
03年のレース以降#10はレースに参加することなく、06年から再レストアが進められ、16年にエンジンこそR-3350ですがノーマルの復座型シーフューリーとして蘇りました。 2022年現在はこの機体の英国海軍機時代の塗装を纏い、トムの長男でこの機体が #10 としてレースに参戦していた頃チームのクルーチーフとして活躍していたケン (Ken Dwelle) の所有機として登録されています。
陽気で活気に溢れたパイロット一家が家族総出でリノに参戦していたトム・ドゥエルのチームはついに優勝こそ出来なかったものの、当時の日本のメディアでも度々紹介されていて、高度に改造が施されても更に発達し続ける#10の機体と共にリノ・エアレースの魅力を伝えてくれた存在でした。
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