この機体、元は英国製ホーカー・シーフューリーの復座形T.20。 英国海軍から放出されたあと西ドイツで民間機登録され1970年代まで標的曳航機として使われていたこの機は米国でN85SFとして再登録されたあと、84年に一族で家庭向けの窓用ブラインドを製造するレヴォール・ブラインドを経営していたエリック・ローレンツェン (Eric Lorentzen) の手に渡りました。 ローレンツェンはアリゾナ州スコッツデールの空港に格納庫を構え何機かの古典機を持っていましたが、このシーフューリーのエンジンが不調でローレンツェンは売却を考えていたところ、ラリー・バートン (Larry Burton) がこの機をエアレーサーへと改造する話を提案、彼はその話に乗ることにしました。 バートンは若い頃に病気の後遺症で車椅子生活となるものの、60年代から数多のインディ500やスプリントカーのメカニックとして活躍をした人物で、腕を買われてローレンツェンの機体の修理をしていました。 しかしその頃のバートンは航空機を扱う様になってからはまだ日が浅く、レーサーへの改造についてはシーフューリーに詳しく技術支援をしていたサンダース・アエロノーティクスのフランク・サンダース (Frank Sanders) などからは懐疑的な意見もあり、皮肉混じりにレーサーには "BLIND MAN'S BLUFF" という名とレースナンバー#88が与えられました。
レーサーへの改造は多岐にわたり、 復座の操縦席は前席を埋められ後席に低いレーシングキャノピーが被せられ、垂直尾翼は元の丸い垂直尾翼から14インチ高さを増した角形へ、水平尾翼も丸い翼端部分が落とされた角形に、主翼は左右4フィートずつ短縮され翼幅が約34.5フィートへ改められました。 この切断された外翼パネルはフランク・サンダースから提供された #87 "Miss Merced" の外翼が流用されたそうです。 翼根前縁の気化器とオイルクーラーの用の開口部が塞がれ、その外側の左右翼前縁に小さい開口部が2箇所ずつ、ガンベイの空間にオイルクーラーが、その後方翼下面フラップのあった場所にアウトレットが設けられました。 フラップは内翼中央側の1セットみの動作とされました。
エンジンはオリジナルのブリストル セントーラスからライト R-3350-26WD へ換装されました。セントーラスは優秀なエンジンでしたが特殊なスリーブバルブ機構は北米でこれを扱えるエンジニアも少なく、部品の供給にも不安がありました。 後年になるとシーフューリー現存機のエンジンを米国製エンジンに載せ替える例が沢山ありますが、R-3350への換装はこれが最初の試みでした。 プロペラはA-1スカイレーダー用のものが、カウリングはダグラスA-26攻撃機のものが流用されました。 また、このエンジンですが燃料系をガソリンからドラッグレースのトップフューエルに用いられる燃料ポンプを3基使ったアルコール燃料仕様とされて地上のテストでは4000馬力を超える出力を出していたそうです。
ローレンツェンはレヴォールのブラインドを選ぶのは家庭の女性であるからとして女性のパイロットを切望しました。 実現すればリノ・エアレース、アンリミテッドクラスで初となる女性パイロットを求め、ローレンツェンは義理の父と縁のあった当時空軍参謀長の将軍とコンタクトをとり、空軍で最高の女性パイロットとして地元アリゾナのウイリアム空軍基地でT-38練習機の飛行教官をしていたシーラ・オグレディ中尉 (Lt. Sheila O'Grady) をチームへ迎える許可を得ました。 しかし中尉がまだ仕上がっていないレーサーの代わりにフランク・サンダースの元で通常型のシーフューリーによる慣熟訓練をはじめた頃、空軍で通常の指揮系統を超越して行われたこの選定に異議が出て、結局中尉は一度もレーサーに乗ることなくチームを離れることになってしまいました。 その後、ユナイテッド航空でパイロットを務める傍らエアショーのスタントパイロットとして活躍をしていたジョアン・オステルード (Joann Osterud) が選定されました。
87年のリノ・エアレースに向けたチームの作業は遅れれしまい、事前の飛行テストはガソリン仕様のエンジンで行われ、アルコール仕様のエンジンに載せ替えての飛行はスコッツデールからリノへの移動を含めても3時間のみという状態での参戦となってしまいた。 リノに到着したチームには大改造を施されたシーフューリーを操縦するのがルーキーのオステルードであることを不安視する声が上がり、予選に先立って出場の可否を問うトライアルが行われることになりました。 しかし彼女はエンジン停止時の着陸対応についてこれをパス出来ず、女性パイロットでレースを戦うというローレンツェンの目論見は実現しませんでした。
急遽オルステードに代わりパイロットを務めることになったのは84年のリノに #84 "Stiletto" で優勝もしているスキップ・ホルム (Skip Holm) でした。 しかしホルムがコースを周回すると#88のアルコール燃料システムのテスト不足が露呈してエンジンが焼損、結局ガソリンの仕様エンジンへと換装して計時に挑むものの脚上げのトラブルも重なり水曜の締切間際になって漸く出場25機のうち10位、速度は 394.103mph の予選結果が出ました。 本レースでは木曜の Heat1-A を388.894mph の1位で終え昇格をしたものの金曜土曜はゴール出来ず、日曜の決勝は降格されたシルバーレースで2位、367.329mphのレース結果となりました。
ローレンツェンのチームにとって88年のレースは不本意な結果でしたが、再起の機会は訪れませんでした。 レヴォール社の業績不振とオーナーのローレンツェンの兄が心臓発作で急死したことが重なって会社は売り出されることになり、彼等のレース機も社の資産の一部で売却対象の例外ではありませんでした。 売りに出された#88は転売され、オレゴンの航空機ブローカー、ビル・ウッズ (Bill Woods) の手に渡って新しい名前 "WANNA PLAY 2" とレースナンバー #90 が与えられました。 機体も基本塗装もほぼそのままでしたが中央翼のオイルクーラーのアウトレットが翼上面側へも拡大されていて流量増を狙った改造が施さた様です。 期待通りに働けば冷却に有利なアルコール燃料仕様前提のレイアウトなので元のままでは足りなかったのだと思われます。 しかし90年のリノ・エアレースで#90はリノ到着時に脚が降りないトラブルで胴体着陸により大きく損傷、お陰でその年のレース結果の公式記録にもその名が見つからないという残念な結果となってしまいました。
ひとシーズンだけの出場で大した活躍も出来なかった#88ですが、野心的試みにより原型機から全く別のシルエットをもつ機体も、すったもんだの経緯も興味深いのでついつい記事が長くなりすぎたことを反省しています。
その後壊れた#90の機体は90年のT-6クラスのチャンピオンで元空軍の飛行士、トム・ドゥエル (Tom Dwelle) に売却されました。 そこから先は別のお話です。
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