この機体は1982年のリノ・エアレースに初出場で初優勝を飾るという鮮烈なデビューを果たしたP-51D改造レーサー。 その後速度記録を更新するものの長らく勝てない時期もありましたが、98年からの連続5年優勝、03年にはアンリミテッドクラスのレースレコードを記録し最速の機体としてその名を轟かせました。
1980年代の頭、カルフォルニア州はベーカーズフィールドの農場主、ビル "タイガー" ディステファニー (Bill "Tiger" Destefani) はP-51レーサーの #72 "MANGIA-PANE" でアンリミテッドクラスに参加するチームのオーナーでした。 #72は外見こそストック状態と変わらないものの、81年には予選で427mphを叩き出し決勝のゴールドレースも3位に着ける高性能機でしたが、デステファニーはもっと本格的なレーサーでの活躍を望んでおり、ルドルフズ フライングサーカスを率いるフランク・テイラー (Frank Taylor)と組んで事故で不動状態のP-51Dを購入、レストアと平行してレーサーへの改造に着手しました。 #1 "Conquest-One" や #5 "Red Baron" など多くのレーサーを世に出したロッキードのエンジニア、空力と構造設計にブルース・ボーランド (Bruce Boland) 、冷却システムにピート・ロウ (Pete Law)を迎え、80、81年に連続優勝しているP-51レーサー #69 "Jeannie" の設計を踏襲し、エンジンと過給機の間にあるアフタークーラーを撤去、間を太いチューブで繋ぎ、そこへ水メタノールを噴霧するADI=anti-detonation injectionが追加されました。腹部のベリースクープも高さを抑えた形状に改められ、ラジエターに直接水を噴射するスプレーバー装置が組み込まれました。オイルクーラーも降ろされ、胴体内にP-51H用の熱交換器を積みアフタークーラー用の系統を流用し冷却液を介してオイル冷却を行う方式に改められました。 後部胴体上面が整形され小さな風防と後方支点跳ね上げ式のキャノピが取り付けられ、主翼端を詰めると共にトリム抵抗を減らすため水平と垂直尾翼の取付角がそれぞれ減らされました。
82年8月末、前年までディステファニーのチームで #72 を飛ばしていたロン・ヘルヴ (Ron Helve) の操縦で初飛行した機体はレースナンバー #4 とイタリア産で安物の赤ワインを意味する "Dago Red" の名が与えられました。 直前までテスト飛行を続けて迎えた82年のリノではヘブルの操縦により440.57mphの速度で予選1位、3連覇を期した#69 "Jeannie" は予選でエンジンを壊し脱落したこともあり、決勝ゴールドレースでは #6 "Sumthin Else" と競り合いましたが #6 がエンジン不調でコースを離れたことでレース後半を独走状態でゴール。新レーサーが初レースで優勝したと注目を浴びました。
82年のレースのあと、ディステファニーは後に #7 "strega" となる自らの機体を構築するため #4 の権利をテイラーに売却、単独オーナーとなったテイラーは翌83年7月自らの操縦でカリフォルニア州モハーヴェで直線15/25km路での速度記録 (#1や#5、#77 "Rare Bear"が更新した直線3km路とは別にFAIが規定したカテゴリで、こちらには高度制限がない) に挑戦、832.12km/hで51年にジャクリーン・コクラン (Jacqueline Cochran) がP-51C "Thunderbird" で作った記録を更新しました。
83年のリノでは#4はリック・ブリッカート (Rick Brickert) の操縦で439.22mphで予選2位に着けました。 先行したのはニール・アンダーソン (Neil Anderson) の #8 "Drednaught" で、決勝でも#4が先行したものの6周目でプロペラのトラブルでリタイアを余儀なくされました。
84年の8月、今度は直線3km路での世界速度記録にも挑むもののトラブルが重なり更新はなりませんでしたが、翌月のリノ'84にはブリッカートの操縦で予選4位、土曜のヒートレースでは当時のレースレコードを更新する439.382mphを叩き出しました。 しかし日曜の決勝で3周目にエンジンから白煙を噴き出して上空に待避するものの煙に引火、ブリッカートは視界不良からキャノピを投棄、ヘルメットとバイザーを焦がしながら辛くも着陸し、まだ燃える機体から離れ九死に一生を得ました。 機体の火災は駆けつけた消防によって消火され、危うく全損を免れました。
その後も#4はレースで勝てない時期が続き、86年にアラン・プレストン (Alan Preston) へ売却されキャノピを#7 ストレガと同タイプの後方スライド式へと改められその年のリノでは決勝4位、80年代後半からはカリフォルニア州サンタモニカにある航空博物館、ミュージアム・オブ・フライトのデヴィッド・プライス (David Price) の所有となりましたが、この頃は#77 レアベアと#7 ストレガが強く精彩を欠いた状態でした。
その状況が一変したのは97年のリノの後、#4はユタ州ソルトレイクの実業家テリー・ブランド (Terry Bland) へ売却されました。 そして当時 #7 ストレガの連勝を支えていた名エンジニアのビル・カーチンフー (William "Bill" Kerchenfaut) をクルーチーフに迎え、ブルース・ロックウッド (Bruce Lockwood) の操縦で98年と99年、スキップ・ホルム (Skip Holm) の操縦で00年から03年と同時多発テロによる01年の休止を挟んで5連続優勝と強さをみせつけました。中でも03年にはヒート2Aで507.105mphのアンリミテッドクラスのレースレコードを記録しています。
04年には#77に次ぎ決勝を2位で終えるとチーム体制が解かれ、06年には前年#20 "Ridge Runner III" を飛ばしていたダン・マーチン(Dan Martin)の操縦で出場するも予選の計時が出来ず、08年には決勝で先行するも#7に抜かれ2位でレースを終えています。 その後#4には所有権を巡る争いが起き、以降レースへの出場はありません。
イラストは02年のリノ出場時の姿。#4の塗装はデビューからずっと赤い胴に黄色と白の帯でしたが、2000年から帯に凝ったデザインのファイアパターンが描かれ強さをより印象付ける姿になっています。 ヒストリー的には最速のレースレコードを記録した03年仕様の方が相応しいかもしれないのだけど、その年から機首のロゴが変わっているのがいまいちなのでその前年の姿としました。 02年には497.787mphで予選のクオリファイレコードを更新していますが、この記録は後に#7 ストレガに上書きされています。
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